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軒端の梅-平成24年-年賀状 [日記・雑感]

能楽:東北の軒端の梅の一節に[この寺いまだに上東門院の御時、御堂の関白この門前を通り給ひしが・・・・・]と梅の霊(和泉式部)が上東門院に仕えていた時の梅について語り謡いて舞う。(上記関白は藤原道長、御堂は常行三味堂)
藤原道長創建の法成寺は京都御苑の東面に当たる現在の上京区北之辺町鴨沂高校グランドの塀沿に法成寺址史跡碑がある。一条天皇の中宮で藤原道長の娘である彰子の求めにより長元3年(1030)に法成寺境内東北面に東北院と呼ばれる常行三味堂*が建立され上東門院彰子に仕える和泉式部は後に東北院が与えられ自ら梅の木を植え「軒端の梅」と名付け眺め愛でたと云われている。
*{常行三味堂:天台宗における四種三の行うち常行三味の行を行う仏堂}。
法成寺は度々の火災、兵火で衰微したが永禄2年(1559)に再興され江戸時代元禄5年(1692)の大火で焼失してしまう。しかし、上東門院ゆかりの東北院のみは京都左京区浄土寺真如町に独立した寺院として現存している。
近藤勇・萩原代官屋敷道場を訪れていた [日記・雑感]
三仏寺と宅間上杉一族 [日記・雑感]
乱世の代を活き抜いた関東管領上杉氏一門の宅間上杉は鎌倉幕府、足利幕府、後北条、徳川幕府に仕え関が原戦に出陣し恩賞として詫間伊織(憲之)は武蔵国都筑郡二俣川の上膳部(現善部町),下膳部(現四季美台・今川町)に二二0石を受領し,所領の知行を安堵され徳川旗本として代々存続し明治四年(廃藩地検)に及ぶ。この間,居住者への心の拠り所とされる三仏寺,妙蓮寺,長楽寺を開基している。
詳細は末巻の地頭・宅間上杉一族ホームページへのリンクをご覧下さい。


墓所には元和三年(1617)から明治十五年(1882)に及ぶ18の墓塔と二基の灯篭が遺されている




ねこ塚:善部町 [日記・雑感]
ねこ塚・・・旭区郷土史原文
「妙法門法妙喜信女 元禄七年十月二日」と、刻まれた小さい石碑がある。以前は卒塔婆がたくさん建てられていたといい、次のような言い伝えがある。
六部姿のおばあさんが、善部の村を通りかかった時、飢えと疲れのため道端に倒れてしまった。倒れたそばでつれていたねこであろうか一匹のねこがしきりに鳴いていた。
鳴き声で村の人達が近づいた時には、すでにおばあさんは死んでいたという。身元も行き先もわからないので、倒れていたそばに葬り石碑を建てた。すると誰言うともなく「ねこ塚」とそのお墓を呼ぶようになったという。
そして、そのおばあさんのねこもそばに埋められ、それからは、ここに、どの家でもかわいがっているねこや犬が死んだ時埋めたという。。

右の道を行

ねこ塚

ねこ塚いわれ
妙連寺へリンク
「妙法門法妙喜信女 元禄七年十月二日」と、刻まれた小さい石碑がある。以前は卒塔婆がたくさん建てられていたといい、次のような言い伝えがある。
六部姿のおばあさんが、善部の村を通りかかった時、飢えと疲れのため道端に倒れてしまった。倒れたそばでつれていたねこであろうか一匹のねこがしきりに鳴いていた。
鳴き声で村の人達が近づいた時には、すでにおばあさんは死んでいたという。身元も行き先もわからないので、倒れていたそばに葬り石碑を建てた。すると誰言うともなく「ねこ塚」とそのお墓を呼ぶようになったという。
そして、そのおばあさんのねこもそばに埋められ、それからは、ここに、どの家でもかわいがっているねこや犬が死んだ時埋めたという。。



巾着田と彼岸花満開 [日記・雑感]
近くにお住まいの井上さんより愉快な名前の巾着田と満開の曼珠沙華(彼岸花)についてメールを頂ましたので紹介します。
日高市内を流れる高麗川(こまがわ)の蛇行によりその形がきんちゃくの形に似ていることから、巾着田(きんちゃくだ)と呼ばれています。 直径約500メートル、面積約22ヘクタールの川に囲まれた平地には、四季を通して花々が咲き、中でも秋の曼珠沙華(彼岸花)群生地は辺り一面が真紅に染まり、まるで赤い絨毯(じゅうたん)を敷き詰めたようです。毎年多くの人がその美しさに惹かれて訪れます。

曼珠沙華群生(彼岸花)-1

曼珠沙華群生(彼岸花)-2

日和田山から見る高麗川(こまがわ)の蛇行が良く判る
横浜散歩紹介
日高市内を流れる高麗川(こまがわ)の蛇行によりその形がきんちゃくの形に似ていることから、巾着田(きんちゃくだ)と呼ばれています。 直径約500メートル、面積約22ヘクタールの川に囲まれた平地には、四季を通して花々が咲き、中でも秋の曼珠沙華(彼岸花)群生地は辺り一面が真紅に染まり、まるで赤い絨毯(じゅうたん)を敷き詰めたようです。毎年多くの人がその美しさに惹かれて訪れます。

曼珠沙華群生(彼岸花)-1

曼珠沙華群生(彼岸花)-2

日和田山から見る高麗川(こまがわ)の蛇行が良く判る
保土ヶ谷宿と十返舎一九 [日記・雑感]
保土ヶ谷宿と十返舎一九:
十返舎一九の「東海道中膝栗毛」は程ヶ谷宿の事を次のように書いている。
[はや程ヶ谷の駅につく、両側より旅雀の餌鳥に出しておく留女の顔は、さながら面をかぶりたる如く、まっ白に塗りたて、いずれも井の字がすりの紺の前だれをしめたるは、さてこそいにしへ、ここは帷子の宿といいたる所となん聞こえし]
紙上の弥次郎兵衛は、それに答えて
[お泊まりはよい程ヶ谷と留女、戸塚前ては離さざりけり]と打ち笑ひ過ぎ行くほどに、品野坂(品濃坂)というところに至る。 これなん武州・相州の境なりと聞けば、 [ 玉くしげふたつにわかる国境、所変わればしなの坂より]
すでにはや、日も西の山にちかずきければ、戸塚の駅になん泊まるべしと、いそぎ行く・・とある。
*なん:「 なむ」に同じで東国方言で推測・推量をあらわす、完了し、または実現する事の確実なことについての推量を表す<新明和古典辞典>
*玉くしげ:くしげ(櫛笥)の美称、櫛など化粧道具を入れておく箱,箱枕の意<新明和古典辞典>
品濃坂プレート
品濃坂プレート拡大
品濃坂指標
品濃坂石標
品濃坂へリンク
十返舎一九の「東海道中膝栗毛」は程ヶ谷宿の事を次のように書いている。
[はや程ヶ谷の駅につく、両側より旅雀の餌鳥に出しておく留女の顔は、さながら面をかぶりたる如く、まっ白に塗りたて、いずれも井の字がすりの紺の前だれをしめたるは、さてこそいにしへ、ここは帷子の宿といいたる所となん聞こえし]
紙上の弥次郎兵衛は、それに答えて
[お泊まりはよい程ヶ谷と留女、戸塚前ては離さざりけり]と打ち笑ひ過ぎ行くほどに、品野坂(品濃坂)というところに至る。 これなん武州・相州の境なりと聞けば、 [ 玉くしげふたつにわかる国境、所変わればしなの坂より]
すでにはや、日も西の山にちかずきければ、戸塚の駅になん泊まるべしと、いそぎ行く・・とある。
*なん:「 なむ」に同じで東国方言で推測・推量をあらわす、完了し、または実現する事の確実なことについての推量を表す<新明和古典辞典>
*玉くしげ:くしげ(櫛笥)の美称、櫛など化粧道具を入れておく箱,箱枕の意<新明和古典辞典>
品濃坂プレート
品濃坂プレート拡大
品濃坂指標
品濃坂石標
保土ヶ谷宿と旧東海道 [日記・雑感]
【保土ヶ谷宿と旧東海道】
現在知られている[旧東海道]は徳川家康の関東入国[慶長六年一月(1601)]に[ほとかや]宛て伝馬朱印状と伝馬定書を下し、程ヶ谷宿を東海道の宿駅と定めた。
幕府の街道政策の一環として東海道の整備は道中奉行を置き[新羽]から元々芝生村の浅間台丘陵に沿う古道と繋がる帷子の里・古町橋を起点とした[岩間],[神戸],[帷子]の町村を新しい街道沿いに移住させ程ヶ谷宿をつくりあげる。
[新羽]から繋がる芝生村(現在の宮田町一丁目)の[追分]の道標(右方向の古道)から松原市場方向へ新しく分岐し[江戸方見附]への道は慶安元年(1648)の[家光]在位の時代に造成された新しい道[新町通り]、帷子川に架かる橋を[新町橋]と呼称で呼ばれたが時代と共に消滅し現在の[帷子橋]として現在に至つている。(広重の絵[程ヶ谷]には新町の文字がみえるのは新しい町に対しての絵上での呼称) 江戸方見附から上方見附まで宿駅制度に力を入れた街道の造成は[程ヶ谷宿]より[今井川]に沿って[元町]→[権太坂]を上り[境木]→「品濃(東戸塚)」→[戸塚宿]に向かう宿駅間交通路の基盤整備が整えられ、東海道五十三次の4番目宿となる。
追分

追分を基点とした古道と旧東海道が八王子街道(現:16号)に繋がるデザイン
道標
古町橋
古町橋の紹介掲示板
帷子里-神明宮
江戸見附跡の紹介掲示板

広重の程ヶ谷帷子川橋-新町入口の絵
旧東海道へリンク
現在知られている[旧東海道]は徳川家康の関東入国[慶長六年一月(1601)]に[ほとかや]宛て伝馬朱印状と伝馬定書を下し、程ヶ谷宿を東海道の宿駅と定めた。
幕府の街道政策の一環として東海道の整備は道中奉行を置き[新羽]から元々芝生村の浅間台丘陵に沿う古道と繋がる帷子の里・古町橋を起点とした[岩間],[神戸],[帷子]の町村を新しい街道沿いに移住させ程ヶ谷宿をつくりあげる。
[新羽]から繋がる芝生村(現在の宮田町一丁目)の[追分]の道標(右方向の古道)から松原市場方向へ新しく分岐し[江戸方見附]への道は慶安元年(1648)の[家光]在位の時代に造成された新しい道[新町通り]、帷子川に架かる橋を[新町橋]と呼称で呼ばれたが時代と共に消滅し現在の[帷子橋]として現在に至つている。(広重の絵[程ヶ谷]には新町の文字がみえるのは新しい町に対しての絵上での呼称) 江戸方見附から上方見附まで宿駅制度に力を入れた街道の造成は[程ヶ谷宿]より[今井川]に沿って[元町]→[権太坂]を上り[境木]→「品濃(東戸塚)」→[戸塚宿]に向かう宿駅間交通路の基盤整備が整えられ、東海道五十三次の4番目宿となる。


トコトン節に滅亡された江戸幕府 [日記・雑感]
・江戸幕府の滅亡:
慶応2年(1867)、徳川幕府は朝廷に政府を奉。明治元年(1868)~明治2年(1869)の「明治戊辰の役」を経て大政復古の大号令が発せられ明治政府の新しい組織が始る。「戊辰の役」は東征大聰督熾仁親王 の下に薩摩、長州をはじめ二十余藩の兵士が江戸に進撃、その時に歌われた軍歌がトコトン節「宮さん 宮さん 御馬の前に ひらひらするのは何じゃいな トコトントンヤレ トンヤレナ ・・・」がある。嘉永4年(1851),和宮新子内親王と婚約内示された最中に徳川幕府は井伊直弼 の暗殺で政治の往き詰まりを朝廷の権威を借り難局を乗り切ろうと幕政を担当した安藤信正は紀州の慶福 (13才)を第14代将軍家茂 に和宮新子内親王を嫁がせ公武合体の政策を関白九条尚忠に提案し孝明天皇の皇女和宮の降嫁を願い実現したが尊王攘夷の志士はこれに怒り翌年安藤信正は江戸城の坂下門で襲撃され傷を負う。熾仁親王は婚約者を政治の道具にされた腹立ちを徳川討伐の東征大総督熾仁親王を任命した明治天皇は「粋」な判断を下した。今流でいうと「リベンジ」だ。「宮さん宮さん 御馬前に ひらひらするものはなんじゃいな・・・トコトンヤレ トコトンヤレナ・・・」と熾仁親王にトコトンヤレと激を飛ばした「軍歌」であるが内容「応援歌」でさぞかし徳川打倒に燃えたことでしょう。(宮さん宮さんは熾仁親王のこと)
江戸幕府の滅亡へリンク
慶応2年(1867)、徳川幕府は朝廷に政府を奉。明治元年(1868)~明治2年(1869)の「明治戊辰の役」を経て大政復古の大号令が発せられ明治政府の新しい組織が始る。「戊辰の役」は東征大聰督
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